2013年9月



ーー−9/3−ーー ゴマすり


 会社員だった、若かりし頃の事。入社4年目研修などというものがあり、その最終日に副社長の講話があった。講話が終わると、質疑応答の時間が設けられた。ある社員が手を挙げ、上司や先輩社員と上手くやって行く秘訣は何ですかと質問した。副社長は、右手の握りこぶしで左手の手の平を撫で回すような仕草をして、「キミ、秘訣はこれだよ、ゴマすりさ」と答えた。ありがちな答えだと、その時は感じた。しかし、その真意というようなものは、この歳になってようやく認識されたように思う。

 自分のこれまでの経験から見ると、歳をとるにつれて人は頭の回転が鈍くなり、気が短くなり、些細な事を根に持ち、一定の考えにとらわれるようになる。そういう人間に向かって、気に障るような事を言ってはいけない。相手が喜ぶような事を言う、つまりゴマをする事が大切なのだ。相手の意に反するような事を言わねばならない時は、とりあえずゴマをすって良い気分にさせてから、本題に入るのが良い。一口に上司や先輩社員と言っても、年齢層に巾はあるだろう。しかし、自分より年上であることは間違いない。だとすれば、この手の配慮は、多かれ少なかれ有効である。相手が副社長ほどの年齢であれば、まさに必要不可欠な事である。

 私も既にそのような年齢だが、年配者どうしの関係でも、同様の事が言える。若い世代なら、自分の意見をはっきりと述べるという事は、ことさら制限する必要も無い。むしろ、あまりへりくだっていると、不利に働く恐れもある。しかし年配者の場合は、ズケズケと物を言うのは控えるべきである。若者と違って、年齢を重ねた者は、その人生の中でいろいろな物を背負っている。若い頃の友人でも、30年も経てばその人生は全く違ったものになる。そういう人間関係においては、誠意ある付き合い方というのは、はっきり物を言う事ではなく、相手を傷つけないような配慮をする事である。

 還暦をとうに過ぎたような年齢になっても、少し歳下の者に対して説教じみた事をズケズケと言う人がいる。そういう人は間違いなく嫌われる。仮に五年の歳の差があったとしても、三十台と六十台では全く重みが違うし、意味も異なる。そういう事を斟酌せず、自分は年長だから言う資格があるというような態度を持ち続けるのは、良い歳の取り方とは言えない。ある程度の年齢に達した者に向かって、口先で正そうとしても、はいそうですかと受け入れる可能性は低い。逆に体面を汚されたように感じて恨まれるのがオチである。年配者は、その人生が他人から見てどのようなものであっても、一目置いた扱いをされたがるものである。重ねてきた年月の長さが、それを求めるのである。

 そもそも、人生の表舞台から降りようとしている人間に向かって、熱心に説教をすべきことなどあるだろうか。「君のその服は似合わないよ」などという指摘は、好みの問題であり、年配者にとってはどうでもよい事であるが、たいていの事は、それと同等なレベル、つまりどうでも良い事でしかない。

 歳をとったら、ぼんやりして、すこし抜けているくらいが丁度良い。可愛いお爺ちゃん、お婆ちゃんというのは、そういうものである。代替わりをして、隠居するような年齢になっても、若かった頃と同じようにギラギラしているのは、えてして周囲との調和を欠く。そのような態度は、周りの人を悩ませ、また恐らく、当人の健康にも好ましくない。

 とまあこんな事を、ぐだぐだと書いている自分自身のていたらくも、余計な事をしているように思う。だいたいは、自らの反省から来るものでもある。

 ともかく人は歳をとり、老いる。その変化を自覚して、年齢相応に立ち回りたいと思う昨今である。





ーーー9/10−−− オリジナル・リカちゃん


 
以前勤めていた会社の友人の紹介で、千葉から来客を迎えた。お嬢さんが美術大学に通っており、将来木工の道に進むことを模索しているとのことで、ご家族で旅行がてら訪ねて来られた。

 一通り工房を案内し、ストックしてある作品をご覧いただき、仕事に関するお話をした。それから母屋に移動して、家内も交えてお茶にしたのだが、ついでに和室に置いてある箱物家具もお見せした。

 和室には四点の箱物がある。画像はそのうち、床の間に置いてある小ぶりの二点。「お手紙のおうち」と「メモリアル・キューブ」である。
 




 そのメモリアル・キューブは、「大切な思い出の品物をしまう箱」というコンセプトである。厨子を連想する方も多いのだが、別に何を入れても良い。ちなみに現状ではこんな物が入っている。リカちゃん人形である。この箱を人に見せる時、扉を開けたときの反応が、毎回楽しみでもある。

 


 ところが、今回のお客様、特に奥様の反応は予想外だった。「これは貴重なものを見させてもらった」と、大いに驚いた様子で、興奮気味とさえ見受けられた。

 実はこの人形、「千葉女子高校オリジナルリカちゃん」なのである。

 三年ほど前、千葉女子高校同窓会からチラシが舞い込んだ。ちなみに家内は卒業生である。創立110周年記念として、千葉女子高の制服を着たリカちゃんを作ることになったので、その予約を受け付けるとの内容だった。先着順で、限定3000体の販売。家内の話によると、千葉女子高の同窓会は結束が強く、いまだに年配女性たちを中心に、元気よく活動しているとのこと。

 当の家内は、この企画に対して無関心だった。私は、女子高生だった頃の家内を連想したわけでもないが、ちょっと興味を感じた。たまたま帰省中だった長女も面白がり、それに背中を押される形で、申し込んだ。10ケ月後に届いたのがこのリカちゃんである。

 さて、客人の奥様がなぜ興奮したのか。奥様の周囲にも千葉女子高の卒業生、関係者がいるそうである。その人たちの話によると、このオリジナルリカちゃんは、もはや欲しくても手に入れる事が出来ない希少価値が有り、一部の人たちには垂涎の的になっているとのこと。そういう話題が耳に入ってくるほど、有名な出来事になっているらしい。「まさかここで現物を見られるとは思わなかった。貴重な経験になった」と言われた言葉が、印象的だった。

 私が調子に乗って「それではこのリカちゃん入りで、この箱を50万円で売りに出そうかな」と言うと、お客人一同は笑っていたが、私はあるエピソードを思い出していた。イタリアの高級木工家具メーカーのオーナーであったP・ギヤンダ氏が来日した時、鳥羽の真珠店で大量のパールを買い付けた。その使い道は、キャビネットを作り、その中にパールを詰めて、丸ごとお金持ちに売るとのこと。キャビネットだけではなかなか売れないが、貴重な品物が入っていれば、買い手は付くとの話であった。




ーーー9/17−−− 薪割り機


 
冬に向けて、薪作りをした。毎年夏場の、重労働である。馴染の林業者に、いつも通り2トン車一杯の丸太を注文した。8月に入って、それが届いた。昨年までは、ナラ、クヌギ、ニセアカシヤなどだったが、今回は毛色の変わった丸太が大半を占めていた。ケヤキだった。トラックを運転してきた親父さんは、「ケヤキは割り難いけど、割れ面が毛羽立つので、火付きは良い」と言って、帰って行った。

 早速30センチほどの長さに切り、斧を入れてみた。確かに、割れ難かった。直径20センチ程度の丸太なら、ナラなどの材種なら一発で割れる。ところがケヤキは、そうは行かない。斧が食い込んで、丸太の途中で止まってしまうのだ。それを割り切るには、食い込んだ斧を丸太ごと振り上げて薪割り台に打ち付けることを繰り返すか、あるいは一旦斧を抜いて新たに打ち込まねばならない。いずれにせよ、たいへん手間がかかる。一振りでパカッと割れるナラなどに比べると、何倍もの労力を要する。

 これでは先が思いやられる。そこで、薪割り機を導入することにした。薪割り機というのは、動力を使って薪を割る機械である。エンジンで駆動する本格的な物から、100Vのモーターで駆動する簡便なものまである。いずれも、動力で丸太を押し、クサビで割るという原理である。以前知り合いの作業を手伝って、エンジン式の薪割り機を使った事がある。これは凄いパワーだ。二又や節、コブなど、癖のある割れ難い部分でも、強引に切り裂いてしまう。薪を商売にしているプロが使う道具である。値段も高く、一般家庭向きではない。

 それに対して、電動薪割り機は、ホームセンターで売っているものもあるくらいで、価格は安い。ただし、パワーも小さい。エンジン式の物と比べると、見るからにひ弱な代物である。使えそうもない道具だと思っていたが、昨年ある人から、この電動式を上手く使いこなして、もう5年以上も役立てているという話を聞いた。その話を思い出して、電動薪割り機を購入することにした。一応ネットで調べて、これなら使えそうだと思われた、8トンのモデルを注文した。

 届いた品物を見たら、頑丈な構造の、なかなか良い品物のようだった。ところがである。薪を割ろうとしたら、期待をはるかに下回る性能だった。宣伝文句では、直径30センチ、長さ50センチの丸太まで割れる。樹種はナラ、ブナ、サクラ、ケヤキなど、何でもOKとのことだった。しかし、実際には、直径20センチ、長さ30センチのサイズでも、ケヤキはほぼ不可能、ナラでもモノによっては割れなかった。割れないと言うのは、クサビが丸太に入らず、機械が止まってしまうのである。そうなると、繰り返しトライしても、割れるものではない。

 似たような電動薪割り機を使っている友人から、割れ難い場合は「そぎ割り」にすると良いという話を聞いたことがある。丸太のセンターから外れた所にクサビを当て、薄く少しずつ割れば良いと言うのである。その方法を実行してみたが、思わしい結果は出なかった。薄く当てても割れないことが多く、仮に割れても、細くなってしまうので、薪として好ましくない。

 性能の低さにがっかりした。返品をして、代金変換を求めようかとも考えた。とりあえず、販売業者にメールでクレームを送った。返事は来たが、パットしない内容だった。要するに、元々この程度の性能であるということが理解された。

 返品という最終手段に出る前に、もう少し手を尽くしてみることにした。過去20年近くに渡る、斧での薪割りの経験を思い起こした。経験不足の者が斧を振るうと、丸太に入らずに弾き返される事がある。同じ丸太でも、慣れた者がやれば、パカッと割れる。それは力の強さの問題ではない。要領の違いなのである。例えば、丸太の中央に斧を入れるよりも、少し手前を狙った方が割れやすい場合がある。

 そのような経験を応用してみた。丸太をセットする際に、下に木片をかませて、かさ上げをしてみた。そうすると、それまで割れなかった丸太が、割れるようになった。これはどういう理由かと考えるに、刃が丸太に接する部分が小さくなり、刃の圧力が高まったために、食い込みやすくなったことが一つ。そして、丸太の外周に割り込む形で刃が当たる事で、周方向の割り裂き効果が発生したこともあげられる。

 この方法で、直径20センチ前後の丸太は、ほぼスムーズに割れるようになった。それでも刃が立たない丸太、太い丸太や癖のある丸太は、一旦斧で割りを入れてから薪割り機を使えば、だいたい片が付いた。斧でも割り込めないような最悪な部分は、チェーンソーで縦に切って小さくして、薪割り機にかけた。

 かくして、当初絶望的に感じられたケヤキの薪割りが、思いの他早く進んだ。帰省していた息子がナラやクヌギを割り、ケヤキは薪割り機で処理するという二本立てで、わずか二日で全ての薪を割り終えることができた。

 使い始めた時は「騙された」と感じたほど失望した薪割り機であったが、なんとか使いこなして、結果を出すことができた。道具は使い方次第であるという事を、改めて感じた。それも、手作業による経験を、動力機械に活かすことが出来て、嬉しく感じた。木工作業もそうであるが、機械が万能ではない。使い手の感覚や勘によって、機械は良くも悪くも機能する。












ーーー9/24−−− 枕を高くして寝る


 知り合いの若者が、東京で小さな漫画出版社に勤めていた。従業員が8名ほどの、雑居ビルの一室だけの小さな会社だが、業績はそこそこ順調だったそうである。それはひとえに、辣腕社長の采配によるものだった。

 その社長は、とにかく激しい人物である。社員や業者を恫喝するのは、日常茶飯事。時には手が出ることもあった。そのため社内は、常に恐怖が支配していた。業務は緊張の連続で、戦々恐々たるものであった。しかしその一方で、日々の残業はゼロ、休日出勤も無しという、ある意味では立派な労務管理であった。不規則な業務に追われる出版業界では、ありえない事である。

 暴君とも言える社長の決まり文句は「オレが嫌いなのは、枕を高くして寝る奴だ」。また、「置きにいく奴もダメだ」とも。

 漫画作家も、ある程度売れるようになると、だんだん安泰路線へシフトする傾向が有るらしい。売れ筋を掴むと、それにしがみ付いて、冒険をしなくなる。あらたな表現を作り出そうという意欲が無くなり、ラクして金儲けをする事を考える。それを社長は「枕を高くして寝る」と言う。

 もう一つの「置きにいく」というのは、野球用語である。ピッチャーが投球をする際に、切羽詰まった状況では、全力投球をするとボールが大きくずれる恐れがある。そこで、力を抑えて、ストライクゾーンをねらう。それを「球を置きにいく」と言う。そういう甘い球を狙い打ちされて、とんでもない結果になる事がある。そういう時に「置きにいった球を打たれましたね」と解説者が言う。

 これら二つの比喩。暴君社長が言いたいのは、リスクを恐れて安全・安定を願う事への戒め、チャレンジをせずに保身に走る事への批判である。暗がりで誰かに襲われても不思議が無いような無頼漢に相応しい、徹底した価値観である。

 しかし、その発言には妙に心を引かれるものがある。創造的な仕事をしている者、あるいは人生を創造ととらえている者にとって、思い当たるものがあるのではないか。







 


→Topへもどる